ブラジルとペルー:世界遺産を巡る旅
Brazil and Peru: A tour around the World Heritage sites
8. マチュピチュ遺跡 その2
 The Historic Sanctuary of Machu Picchu part2


さて、マチュピチュの遺跡巡りの後半です。

こちらは居住区の北の端、ワイナピチュ峰への入り口です。

ここを通過する人は、氏名と入山時間を登録します。
入山者は朝200人、昼200人の一日合計400人に制限されています。
マチュピチュ峰を背景にした空中都市マチュピチュ、そしてワイナピチュ峰をぐるっと取り巻くウルバンバ川の渓谷など素晴らしい眺望が堪能出来るとのことですが、時間がないのでパスします。

それにしてもインカの人たちはなぜこのような急峻な山の上にマチュピチュを建設したのでしょうか。これはマチュピチュの発見以来の大きな謎でいろいろな説が語られてきましたが、現在では一定の説に議論が収まってきているようです。
少し長くなりますが、インカ滅亡のストーリーを辿りつつご紹介しましょう。


このシリーズ5回目クスコの項で、インカ帝国13代皇帝アタワルパが1533年にスペイン人ピサロの軍門に下ったことをご紹介しました。その後統治のためピサロは形だけの傀儡皇帝を立てます。その2人目、マンコ・インカ・ユパンキはワスカルやアタワルパと同じく11代皇帝ワイナ・カパックの息子ですが、12代皇帝のワスカルに近く、アタワルパを倒したスペイン人に協力して帝国を統治していくつもりでした。

しかしスペイン人との衝突が絶えず、実質は傀儡という現実に我慢出来ませんでした。マンコ・インカは1536年、ピサロが新首都リマに行っている間にクスコを脱出して10万人規模のインカ軍を率いてサクサイワマンの砦を占拠しクスコの奪回を試みます。

攻防は10ヶ月間続きますがクスコを陥落させることは出来ず、マンコ・インカはクスコ奪回をあきらめます。そしてウルバンバ川沿いのアグアス・カリエンテスの手前、オリャンタイタンボ(Ollantaytambo)に移り、スペイン人の追及が厳しくなるとさらに西方山奥のヴィルカバンバ(Vilcabamba)に後退します。

Vilcabambaというのはスペイン語表記で、ハイラム・ビンガムはもとの発音に近いUilcapampaと表記しています。ケチュア語ではヴィルカパンパ(Willkapampa)と表記し、聖なる平原を意味するとのこと。

ただし、ヴィルカ(Vilca)という覚せい剤として好まれた植物が、上流ではヴィルカノータ(Vilcanota)川と呼ばれるウルバンバ(Urubamba)川の河畔にはたくさん自生していたそうです。聖なる平原とはいえ、インカ皇帝もヴィルカを愛用して精神的高揚を経験していたのでしょうか。

それはさておきややこしいのは、「ヴィルカバンバ」という名前で呼ばれるのが一般に言われているようにインカの失われた都かと思うと必ずしもそうではなく、むしろクスコの西北方向にある地域一帯がそう呼ばれていたことです。また地図上にヴィルカバンバを冠した町もありますが、スペイン人が造った町のようです。

ハイラム・ビンガムは、ヴィルカバンバは地域の名称と考えており、ある伝説を手がかりにインカ最後の都はヴィトコスと考え、ヴィトコス探し求めた結果マチュピチュを発見しました。

ここでは、この地域を「ヴィルカバンバ」と呼び、失われたインカの都ヴィルカバンバを、幾つかの資料に倣って「ヴィルカバンバ・ラ・ヴィエハ(Vilcabamba La Vieja/Viejo):昔のヴィルカバンバ」と呼ぶことにします。その他は現在の地名で記述します。

地図上にあるヴィルカバンバという町についてハイラム・ビンガムは、「ヴィトコス(Vitcos)の谷にあるSan Francisco de la Victoria de Vilcabambaという町の長い名前が縮まってVilcabambaになった」という話を伝えています。ヴィルカバンバ・ラ・ヌエヴァ(Vilcabamba La Nueva:新しいヴィルカバンバ)という町もありますが、これもスペイン人が鉱山開発の拠点として造った町です。

ヴィルカバンバと呼ばれる地域は、クスコの北側から流れていくヴィルカノータ川ないしウルバンバ川と、そのさらに西南側にほぼ平行してクスコの南側から流れていく、これもアマゾン川支流のアプリマック(Apurimac)川に挟まれた、クスコの西北方向に広がる山地を指しているようです。
南には氷河もある6000m級のサルカンタイ(Salkantay)山やプマシリョ(Pumasillo)山といった山々もあって南米のスイスと呼ばれますが、涼しい高原のアンデスに比べると亜熱帯ジャングルに近い気候の地域も入り混じり、道は険しく一般的には住みにくいとされていました。

現在では、この地域に散在するインカの遺跡と大自然を訪ねるクスコを基点とした1〜2週間のトレッキング・ツアーが数多く設定されています。まさに隔世の感ですね。

さて、マンコ・インカはスペイン人による追撃が容易なウルバンバ川沿いのオリャンタイタンボから、アクセスの難しいヴィルカバンバの奥に引っ込み、そこからクスコやリマに時折ゲリラ戦を仕掛けていました。最初はマチュピチュから西北西に直線距離で50kmぐらいのヴィトコス(Vitcos)に居を構え、さらに西北西にこれも直線距離で約60kmの奥地、アプリマック川に近いエスピリトゥ・パンパ(Espiritu Pampa)に移りました。

スペイン人との緊張関係が続く中、スペイン人同士の抗争もあり、ピサロを憎んだマンコ・インカはピサロ派の手を逃れてきたスペイン人を、役に立つかもしれないとかくまいます。しかし1544年にマンコ・インカは彼らにより殺害されてしまい、3人の息子が皇帝を引き継ぎます。

1571年に跡を継いだ3人目の皇帝トゥパク・アマルは、インカ帝国の影響力を徹底的に排除しようと決意したスペイン側に追われ、最後の都を焼き払ってジャングルに逃げます。しかしやがて捕らえられ、1572年にクスコで親族共々処刑されます。

その最後の時、クスコに集まったインカの嘆き悲しむ人々を抑えてのトゥパク・アマルの毅然とした態度は人々に感銘を与えたといいます。トゥパク・アマルとはケチュア語で「高貴なる炎の竜」を意味するそうです。

こうしてインカ帝国の歴史は完全に幕を閉じます。 トゥパク・アマルのまだあまりに幼い娘、フワナ・ピルコワコだけを残して・・・。

さて、その後ヴィルカバンバの名前はインカの最後の都のあった場所として残ったものの、訪れるものもなく一帯はジャングル化していき、その都の正確な場所がわからなくなってしまいました。

1879年にペルーがスペインから独立し、インカの魅力に惹かれた外国人も多く入ってきました。インカ最後の都には王族がスペイン人から守った黄金財宝が密かに隠されているに違いない、とヴィルカバンバの黄金郷探しがはじまりました。

ハワイ生まれでイェール大学の歴史学者ハイラム・ビンガムは、19世紀の自由主義者、シモン・ボリバーの調査研究をしていて1908年にチリでの国際会議のあとペルーに立ち寄りました。
時のアプリマック県知事からインカの都の候補とされる遺跡の調査依頼を受けたのをきっかけとして、自らもインカの歴史に魅入られてインカ最後の都探しを始め、インカの遺跡が散在するヴィルカバンバ地域を探検してまわりました。

ハイラムは先に述べたように、ヴィルカバンバ地域にあるインカ最後の都としてのヴィトコスに関する伝説を基にしてヴィトコスを探し求めました。そして1911年7月24日、地元の11才の少年、パブリート・アルバレスの案内で急峻な山上の空中都市に辿りついたのです。

彼はマチュピチュをインカの失われた都市として紹介し、世界にセンセーションを巻き起こしました。1913年のナショナル・ジオグラフィック誌4月号にはハイラムによる「In the wonderland of Peru」というタイトルの記事が掲載されました。
また1913年6月15日付けのニューヨークタイムズ紙は「Lost City in the Clouds Found After Centuries」というタイトルの大特集記事を掲載しました。

ハイラムは第二次大戦後の1948年に「インカの失われた都市(Lost City of the Incas)」を出版し、ベストセラーになりました。実はこれ以前にもマチュピチュを発見した人々が1800年代後半から何人かいるようですが、このような形で世界に広く発信したのはハイラムが最初でした。

ハイラムは、ヴィトコスやエスピリトゥ・パンパも探しあてて訪れました。しかし遺跡の規模を過小評価していました。彼は、マチュピチュこそが追い求めていたインカ最後の都だと考えていたようです。しかし現在では様々な調査や考察の結果として、インカの最後の皇帝の最後の都は、最終的にはクスコと都市の構造が類似しているエスピリトゥ・パンパであった、とされています。黄金財宝の類は発見されなかったようですが、実はいまだ発見されていないだけなのかもしれません。

それではマチュピチュが建設された目的は何だったのでしょうか。 マチュピチュはインカを国として大きくまとめ発展させた第7代皇帝のパチャクテクの時代、1462年頃に王の離宮として造られた、というのが現在の主流の説になっています。
暦代皇帝は時折このとても過ごしやすい場所を訪れて太陽を崇め、祭儀を行っていたようです。皇帝が来るときは1000人近い人口になり、ふだん生活する人数は数百人レベルだったとのこと。

インカがこの街を去った理由は特定されていません。スペイン人の勢力の拡大に伴い、この快適な空中都市ももはや使うことも出来なくなりうち捨てられたのかも知れません。スペイン人もこのマチュピチュの存在は知らず、まったく手付かずの状態で現代に蘇ったのは驚嘆すべきことです。

さて、一般居住地区を回ってきて、コンドルの神殿に到着しました。 壁の向こう側は中央広場で、中央の木が岩の背後に見えます。

コンドルを模した一枚の石が地面に設置され、ロープに囲まれています。 亀の頭のような手前の白い部分が顔になります。
3

ここにも背後に自然の豪快な巨石が巧みに取り込まれており、コンドルが羽をひろげた形をあらわしているようです。巨石の上にさらに石組みをして建物の一部となっています。

中央広場の向かい側には太陽の神殿があります。 自然石を生かしつつ、その上に曲線的に精細な石組みがなされた見事なものです。



さらに太陽の神殿の下部には、自然石を生かしつつ自在に切り取り、あるいは石を嵌め込んで斜めや弓形の線を強調しつつ造形した見事な施設があります。これは陸墓と呼ばれ、ミイラの安置所と考えられています、ハイラムはここで女性のミイラを100体以上発見したそうです。

中には牢獄と思しき窪みがあります。 ここは地上からインカの地下の世界に通じる場所なのかもしれません。

居住地区から農耕地区との境目に出てきました。 そこから見た居住地区は、一見フランスやイタリアによく見かける丘の上の村か街のようです。

この狭い急峻な場所に畑も有して自給自足体制が完結しているところが違いでしょうか。 萱葺き屋根の建物がきれいに並び人も賑やかに暮らしていた往時がしのばれます。 インカの建物は王宮や神殿も含め、すべてが萱葺き屋根でした。

農耕地区のアンテネスでは2頭のリャマが出迎えてくれました。 リャマはとてもおっとり、のんびりしています。この土地の時間の流れのせいもあるのでしょう。

見事なアンテネスの後方に斜面に沿って幾つか建物が見えます。 これはコルカ(cloca)と呼ばれる貯蔵庫です。 乾燥させたじゃがいもや肉等の食料が貯蔵されていました。

こちらにも1頭、静かに草を食んでいます。

インカ時代のころからいるリャマの末裔なのでしょうか。

東側の谷がよく見えるところにきました。 ここはアグアス・カリエンテスのひとつ先、マチュピチュ直下のプエンテ・ルイナス駅のあたりです。400m下のウルバンバ川の谷間に復路のハイラム・ビンガム号が待機しているのが見えます。

手前の薄い雲のあたりに九十九折りのハイラム・ビンガム・ロードも少しだけ白い切り込みのように見えます。これから下ってクスコに戻ります。

ハイラム・ビンガム・ロードをバスで下って行くと、途中で少年が「グッバーイ」と叫びながら手を振っています。
次のヘアピンカーブを曲がって降りていくと、なんと同じ少年が叫びながら手を振っています。
その次も、そしてまたその次も・・・。
バスは結構なスピードなのに。


彼は、かの有名なグッバイ・ボーイ。
九十九折りの坂道を串刺しに一直線に駆け下りて帰路のバスを待ち受け、手を振って大声をかけるのです。バスが通り過ぎてしまうと、また飛ぶように駆け下りて先回り。
これを繰り返し、最後はバスに乗り込んできてチップを集めてまわります。

素晴らしいマチュピチュ観光を満喫し最後の少年のパフォーマンスに沸く乗客は当然太っ腹。 まっとうな仕事をする大人よりも結構稼ぎがいいとか。
バス一台に一人しかいなかったので、資格を得るための競争は非常に厳しいに違いありません。

帰りのハイラム・ビンガムです。
ディナーの後は真っ暗で外も見えず、乗客は車内でくつろいでいます。

行きに同行していたThe Vera Brothersも帰りが本番、という感じ。
日本人観光客も多いせいか、ラテンの曲に交えて日本の歌も飛び出します。

びっくりして笑ってしまったのは、マチュピチュの歌。
なんと「黄色いさくらんぼ」のメロディに乗せて、スペイン語の歌詞。途中は何を言っているかわかりませんが、最後の「サクランボ♪」が、「マチュピッチュ♪」になっていました。

クスコに戻ってきました。
夜の10時ごろですが、クスコは黄金色。
アルマス広場はまさに光あふれ輝いています。

街灯も効果を考えて橙色のランプ一色に統一しているとのこと。
黄金の国、インカの首都にふさわしい、クスコ最後の夜景でした。