ブラジルとペルー:世界遺産を巡る旅
Brazil and Peru: A tour around the World Heritage sites
9. リマ Lima


旅の最後はペルーの首都、リマです。今回ご紹介する4番目の世界遺産になります。

リマはスペイン人征服者、ピサロがペルーの植民地支配のために新たに拓いた首都でした。
話はリマ建設の16世紀にさかのぼります。

インカ帝国の都は3400mの高地にあるクスコでした。しかしアンデスに閉じたインカ帝国と異なり、スペイン本国のみならず欧州その他との人の往来や交易、そして高地への物資の輸送の手間を考えると、スペイン人にとっては首都を海岸に置き、開かれた外港を持つことが必須でした。
ピサロは太平洋沿岸部を調査しリマック川(Rio Limac)の河口に都を建設することを決めました。

新首都建設に本格的に取り組むまで、ピサロはペルーの中央部、リマからは250kmほど山側に入った標高3,400mにあるハウハ(Jauja)に残されたインカの宮殿と庭園がとても気に入り、1534年にとりあえずハウハに首都を置きます。この街も千年以上の歴史を持ち、食糧備蓄用のコルカの遺跡も数多く残されており、インカの時代にも重要な拠点であったと思われます。

リマック河口にはインカの村があり、ピサロは首長のタウリチゥスコ(Taulichusco)の邸宅の場所をピサロの宮殿とすることに決めました。そして1535年1月に「諸王の街」という意味の“La Ciudad de los Reyes”と命名して首都とすることを宣言します。

これが、16世紀末から「リマ」と呼ばれるようになった今のペルーの首都の建設の始まりで、街は「スペインの都市の造り方」として後述するように時間をかけて構築されていきます。リマは18世紀半ばまでは南米におけるスペイン自治領の首都であり最重要の都市でした。

現在のリマは、歴史的建造物が多く残る中心部のセントロ(Centro)地区と、海岸沿いの新市街、ミラ・フローレス(Mila Flores)の2地区が代表的な地区です。

まずは歴史的旧市街からご紹介します。

リマの中心部は1988年に世界遺産として認定登録されました。UNESCOには「リマの歴史的中心街(Historic Centre of Lima)」として登録されています。

UNESCO
http://whc.unesco.org/

2007年の大地震で世界遺産の対象となった多くの建物が大きな損害を受けましたが、当初の建築時と同様に現地の職人と欧州の建築家の共同作業が行われ見事に復旧されました。
日本と並ぶ地震国ペルーは過去にも多くの大地震に見舞われています。文化遺産の保存には大変な努力が必要なことでしょう。

セントロ地区の中心にアルマス広場(Plaza de Armas)があります。
この広場は最初はアルマス広場と呼ばれ、1997年にマヨールになりましたが、またアルマス広場に戻されたようです。因みにアルマスとは武器、マヨールとはメジャー、大きなという意味。
アルマス広場はスペイン語圏には数多くありますが、スペイン人は戦闘的なのでしょうか。
正方形のとても整った広場で、大統領府、カテドラル、市庁舎など歴史遺産の見事な建物や市の主要公共施設が広場を囲んでいます。

広場は憩う人々、行きかう人々、そしてたくさんの鳩でとても賑わっています。 広場の北側には大統領府があります。

現在の大統領府は1938年に建てられたネオ・バロック様式のものです。

ピサロは1535年ここに2階建ての宮殿を造ってペルー総督府とし、敷地には警備員用宿舎や厩舎がありました。しかしピサロはリマに移った後もインカや征服仲間だったアルマグロとの闘争に忙殺されるうち、1541年にこの場所でアルマグロ派に暗殺されてしまったのです。

その後ペルー副王がペルーを統治する体制となり、副王宮殿として拡張が続けられました。 1921年の火事で大部分が焼失してしまい、1938年に現在の大統領府が完成しました。

東側にはカテドラル、大聖堂があります。
ピサロが自ら礎石を置いたとされるペルーで最も古いカテドラルです。1622年に完成しました。
ピサロの遺体はここに安置されました。

以前はスペインの故郷から送られたピサロの騎馬像がカテドラルの前に飾られていましたが、「ピサロは祖先が築いたインカ文明を破壊した人物」、というペルーの人たちの心情に配慮して取り払われました。

これは反対側の西方向。
左の椰子の木に隠れていますが噴水があり、リマの色、コロニアル・イエローの黄色がかった建物が2つあります。

右にあるのが市役所です。

市役所は1548年に現在の場所に移動しましたが、火事で焼け、1944年に再建されました。 従来のネオ・コロニアル様式を踏襲しています。

左にあるのはPalace de la Unionの建物です。 140年前に設立された非営利の市民団体Club de la Union等が利用しているようです。 この建物も比較的に新しく1942年に竣工しました。

Palace de la Unionの建物や、そこに入っているClub de la Unionの組織は、後にご説明するスペインの都市を構成する市民組織の名残ではないでしょうか。

二つの建物には黒褐色の出窓がありますが、これはムーア様式のバルコニーです。
リマの旧市街のいたるところにさらに特徴的なムーア様式のバルコニーを採用した建物があります。これらは移民たちがスペイン本国のアラビア風ムーア様式のバルコニーを持ち込み、地震の多いリマに合うようにアレンジしたものです。

次の教会はアルマス広場から2ブロックのところにある南米最大のサンフランシスコ教会・修道院。
サンフランシスコ教会・修道院はバロックとムーア様式をとり入れ、これもリマの黄色を基調にしたとても美しい教会です。以前は単独で世界文化遺産に登録されていました。

1546年に建築が開始され、途中1656年の地震により修復を余儀なくされましたが1672年に完成しました。スペイン領ペルーの最盛期に建てられただけあって、ペルー国内のみならず近隣およびスペイン本国からもセビリアのタイル等の高価な建築資材を集め、本国の優れた建築家や現地の石職人などが関わりました。

そして新市街のミラ・フローレス。

海岸沿いには恋人たちの公園(Parque del Amor)があります。
その名の通り抱き合う恋人たちの大きな彫像があり、幾組ものカップルが散歩したり語らったりしています。

海際は50mほどの高さの断崖になっており、海からの上昇気流を利用したハンググライダーがいくつも空を舞っています。

ミラ・フローレスでは海に突き出た桟橋の先にあるレストラン、La Rosa Nautica(ラ・ロサ・ナウティカ)で魚介類を中心としたペルー料理の昼食をとりました。

La Rosa Nautica
http://www.larosanautica.com/rn_homeing.html


写真でのご紹介は以上ですが、@スペイン人の都市の造り方とAインカ帝国征服後の状況につき背景情報を2点まとめます。
よろしければお付き合い下さい。

@スペイン人の都市の造り方について

スペイン領の主要な都市は本国も含め、広場を中心に回りに教会や市庁舎があり、道路が四方に広がるところがほとんどですが、ポルトガル領であったブラジルのサンパウロやリオの都市はそういった統一感はありません。日本でも奈良や京都などの計画性は素晴らしいものでした。

スペイン人は植民都市を建設するにあたって、まず都市を構成する市民を選びました。そして都市の候補地を選び、国王の名において都市を建設する宣言を行い、16世紀はじめの勅令に示された植民都市計画に基づき中央広場とそこを基点とする格子状の街路を作りました。

そうして出来た区画のうち、広場周辺は行政や教会等公共機能に当てられ、その他は建設に参加する有力者に割り当てられてそれぞれがその場所にふさわしい立派な家を建てる権利と義務を負いました。

市民といってもスペイン人に閉じたもので財力の背景としてエンコミエンダを持ち、自らは都市生活を享受する人たちです。

「エンコミエンダ」とは要するに、征服に寄与した者に対して寄与度に応じて征服地と住民の支配権を割り与える制度です。16世紀はじめにキューバ地域の総督がはじめた制度です。

この制度は先住民を奴隷のごとく扱うことを可能にし、何人かの協会関係者が廃止を国王に訴えました。本国にとっても植民地の現場が封建領主のような勝手な振舞いが目立ちはじめ、直轄の支配を休暇するため制度自体は廃止の方向に向かいますが、先住民の苦しみは長く続きました。

さて、リマック河口にはインカの村があり、ピサロは首長のタウリチゥスコ(Taulichusco)の邸宅の場所をピサロの宮殿とすることに決めました。そして1535年1月に「諸王の街」という意味の“La Ciudad de los Reyes”と命名して首都とすることを宣言します。これが、16世紀末から「リマ」と呼ばれるようになった今のペルーの首都の建設の始まりで、街は時間をかけて構築されていきます。リマは18世紀半ばまでは南米におけるスペイン自治領の首都であり最重要の都市でした。

Aピサロのインカ帝国征服後のスペイン人同志の戦いと、スペイン人とインカ先住民との戦いについて

1533年、ピサロはインカの13代皇帝アタワルパを処刑し、インカ帝国を制圧しました。
電撃的にインカ帝国の制圧に成功して首都をクスコからリマに移したピサロでしたが、植民地支配のための難題を幾つか抱えていました。
ひとつは植民地支配に利用しようとした皇帝マンコ・インカの抵抗、もうひとつはともにペルーにやってきた征服者仲間のアルマグロとの確執です。
さらには植民地支配に関する本国政府との交渉です。ピサロの死後本国の締め付けが顕在化していきます。

傀儡皇帝の扱いに不満なマンコ・インカが、10ヶ月間の攻防の後クスコ奪回をあきらめてオリャンタイタンボ(Ollantaytambo)に後退し、その後も征服者に抵抗したことは前回説明のとおりです。

スペイン人ディエゴ・デ・アルマグロ(Diego de Almagro)はピサロとともに1527年以降ペルーにやってきて、ピサロを支えてインカ帝国制圧に大きな功績がありました。その見返りにスペイン国王からペルー北部の統治権を得たピサロに対して、アルマグロはチリを含む南部の統治権を得ました。直接スペイン国王との間で話を有利に進めるピサロにアルマグロは不満を募らせつつありましたが、1535年早速自分の領地を検分すべく、南部の開発探検へとクスコを出発します。

一方マンコ・インカは、アルマグロが南部遠征に行き、ピサロがリマに滞在している間にクスコを脱出し、1536年反撃に出て逆にクスコを包囲します。しかし10ヶ月間の攻防の後これをあきらめてオリャンタイタンボに後退します。

1537年にアルマグロは南部遠征から帰ってきましたが、結果は散々なものでした。大いなる不満を抱きクスコに戻ってきたアルマグロは、クスコも自分の領地と主張して居座りました。
ここから10年間にわたるスペイン人同志の内乱が始まります。

ピサロは武力で決着をつけることを決意し。1538年、ピサロ軍に破れたアルマグロは捕らえられ、獄中で殺害されます。

しかし不満分子として残った部下が1541年にピサロのリマの家を不意打ちし、ピサロはあっけなく暗殺されてしまいます。
享年63才。黄金帝国を制圧しスペインにインフレが起きるほど多大な富をもたらし、ペルー総督に上り詰め、1537年に侯爵の爵位を得たフランシスコ・ピサロの生涯は最後まで血なまぐさいものでした。

ピサロの死後、アルマグロ派は息子のエル・モソをペルー総督に仕立て上げますが、本国から派遣された監察官ヴァカ・デ・カストロ(Cristobal Vaca de Castro)軍との1542年の決戦でアルマグロ派は破れ、エル・モソは処刑されます。
7人のアルマグロ派の残党がヴィルカバンバのマンコ・インカの下へ逃げ込み、ピサロを激しく憎んでいたマンコ・インカはこれを受け入れますが、これが仇となり、1544年にマンコ・インカはスペイン人に殺害されてしまいます。

ピサロの死後スペイン王室は植民地の直接統治を強化します。1544年、本国王室はペルー副王制を採用して現地の権限を大幅に制約し、現地を無視したやり方に怒ったピサロの異母弟、ゴンサーロ・ピサロは反乱を起こします。船舶を抑えて本国との交通を断ち一時はブラジルを除く南米大陸を支配しますが、1548年に王軍に屈し処刑されます。

マンコ・インカの死後はマンコの息子が次々と跡を継ぎ、1571年からは3人目のトゥパク・アマルが跡を継ぎます。

新任の副王トレドはインカ勢力の一掃を決意し、トゥパク・アマルは密林で捕らえられ、1572年、クスコで処刑されます。処刑に際してのトゥパク・アマルの最後のインカ皇帝としての決然とした態度は後世に語り継がれていきます。
親族も共に根こそぎ処刑された中で、トゥパク・アマルのまだあまりに幼い娘、フワナ・ピルコワコだけは処刑を免れました。

それから200年が過ぎ、クスコのガブリエル・コンドルカンキという首長が、スペイン人行政官に対して「トゥパク・アマルの反乱」を起こしました。彼はフワナ・ピルコワコの直系の子孫で、最後のインカ皇帝トゥパク・アマルから数えて6代目。自らトゥパク・アマル2世を名乗ったのです。

この「トゥパク・アマルの反乱」は1780年にはじまり、およそ2年間続きました。全盛時には旧インカ帝国の南東部を支配下に置き、スペインの南米支配を大きく揺るがせました。
この南米先住民による反乱は、スペイン人を中心とする外来支配階級に対し、鉱山や織物工場での過酷な賦役や経済的苦痛、そして虐待の状況の改善、改革を訴えるものでした。

しかしやがて人権確保から、白人排撃、インカ帝国再興という形に変質し始め、周囲の支持を失い、トゥパク・アマル2世は2年の戦いの末、先祖同様クスコで処刑されてしまいました。
しかしこの戦いはインカの末裔が指導する虐げられた南米先住民、インディオの復権運動であり、南米独立の先駆的動きでもあったといえましょう。

インカ帝国全盛期の人口はおよそ1600万人と推定されていますが、スペイン人の侵入以後、18世紀末には100万人台と1桁以上激減したといわれています。

スペインからの独立は19世紀に果たされますが、当時の支配階級は1割の白人で、原住民の復権運動には長い時間を要しています。

話をしたひとりの先住民系ペルー人が「ペルーもスペイン人ではなく、ポルトガル人が来ればまだよかったのに」と語っていました。現在のブラジルの発展を意識しての発言でしょう。

これを言葉通りには受け取れませんが、インカ帝国に起こったことは黄金の国の悲劇であり、東洋の黄金の国ジパングのケースも合わせてみると、インカ帝国とスペイン、そしてブラジルや日本を含む文化の相対性についていろいろと考えさせられてしまいます。


さて以上でブラジルとペルーの世界遺産を巡る旅は終わりです。

南米には素晴らしい大自然とそこに生きる様々な動植物、そしてそれと共棲し文化を創り上げ融合させていく人間の様々な知恵を生かした営み、そしてその背景には過去の南米先住民とイベリア半島の西洋世界との激しいぶつかり合いがありました。

異国の旅は、その国の歴史をひも解くことで、さらに深まっていくようです。