My Favorite Travels And Places
(私の好きな旅と場所)

15.フランスからスペインへ


【はじめに】

今回からは、フランスをはなれ、スペイン南部のアンダルシア州」(Andalucia)のプエブロブランコ(Pueblo Blanco)と呼ばれる白い村々を訪ねます。

はじめに、スペインとアンダルシア州についてその概観と歴史をまとめます。

<プエブロブランコ(白い村)フリヒリアナ>


<プエブロブランコ(白い村)トレベレス>



【スペインの概観と歴史】

スペインには、17の自治州(Comunidad autonoma)と50の県(Provincia)に2つの自治都市(Ciudad autonoma)があり、ムニシピオ(Municipio)やコマルカ(Comarca)と呼ばれる8111の市町村から構成されています。(2010年現在)

スペインでの人の足跡は、北部サンティリャーナ・デル・マル(Santillana del Mar)郊外のアルタミナ(Altamira)に残される、紀元前14000年代の洞窟壁画に見ることが出来ます。

紀元前ローマ時代に築かれた銀の道(Ruta de la Plata)は、北部で採掘された金や銀にワインや農産物を、ヒホン(Gijon) から南部のセビリア(Sevilla)までの約1043Kmに及ぶ物流.交易.軍用に使われた街道で、セビリア港からローマ(Roma)にこれらの物資が船で運ばれています。

紀元前205年には、スペインのほぼ全土がローマ帝国による支配を受けます。

エスパーニャ(Espana =スペイン)の名称は、このころにローマ人たちがヒスパニア(Hispania)と命名したことに起源しています。

そしてローマ帝国の言語と文化は、後世のスペインの成立や文化の基盤となっています。

いくつかの王国が変遷した後の10世紀には、イスラム教徒による支配のもとコルドバ(Cordoba)を首都とする世界最大の都市として、又イスラム文化の中心とし発展し繁栄します。

その後イスラム教徒の支配からキリスト教徒による復権運動レコンキスタ(Reconquista)が起こり、1236年カスティーリャ王国フェルランド3世(Fernando V: 1201-1252年) とカトリック教徒による支配へと推移します。

1479年カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併により、カトリック教徒によるスペイン王国が誕生します。

そして1492年イスラム教のナスル朝グラナダ王国が滅亡しレコンキスタが収束します。

1492年スペイン女王イザベルT世(Isabell Tde Castilla : 1451-1504年)の援助を受けたクリストーバル・コロン (Cristobal Colon スペイン語 : 1451-1506年=英語ではクリストファー・コロンブス Christopher Colombus )の新大陸の発見にはじまるスペインの「大航海時代」の発展は、世界各地の植民地と奴隷貿易による繁栄をもたらし「太陽の沈まぬ帝国」と称えられるスペイン王国を築きます。

しかし1521年には、中南米に侵攻したエルナン・コルテス(Hernan Cortrs : 1485-1547年)が中米のアステカ文明を滅亡させ、1520年代にペドロ・デ・アルバラード(Pedro de Alvarado : 1485-154年)が南米のマヤ文明を滅亡させ、続いて1532年にフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro : 1470-1541年)がインカ文明を滅亡させ、中南米に栄えた三つの文明が消滅されてしまいます。

スペインは、三つの文明の消滅と多大な犠牲とを引き換えに、ボリビアのポトシ銀山などから大量の銀を自国に持ち帰り「黄金時代」を築きます。

この「黄金時代」を擁護してきたスペイン海軍の無敵艦隊は、1588年のイギリス海軍と英仏海峡アルマダの海戦で破れ次第に世界の制海権を失ってゆきます。

中南米から持ち帰った多大な銀は、ヨーロッパでの価値の低下を招きインフレを誘発する結果となり価格革命や商業革命が起こり、それまでに築かれたスペインの富も、しだいにイギリスやオランダといった国々へと移り、16世紀から17世紀前半までのスペインの「黄金の世紀」(Siglo de Oro)に幕をとじます。

近代になり、1936年から1939年のスペイン内戦で、それまで大統領を務めていた反ファシズムを唱えたマヌエル・アサーニャ(Manuel Azana : 1880 - 1940年 )が主導した人民軍に、フランシスコ・フランコ(Francisco Francoy : 1892 - 1975年)将軍を中心とする右派の反乱軍が、ドイツとイタリアの支援を受け勝利し中央集権体制の独裁政権を樹立します。

彼が死亡した1975年11月に民主化の機運が高まり、1978年に制定される新憲法によりスペインは、民主主義国家に生まれ変わり今日に至っています。

こうしたスペインの歴史の変遷とその過程で築かれた独自の文化は、今日にも継承され魅力ある観光資質ともなっています。

かつての「銀の道」は、15世紀にサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)へと続く巡礼の道の一つとなり、そして現在は国道630号線とし整備され、隣接する中世の歴史ある街や村の城や修道院が、国営ホテル.パラドール(Parador)として改装され多くのツーリストを魅了する観光施設ともなっています。

中世のイスラム教徒とカトリック教徒の抗争の歴史も、イスラム文化とカトリック文化が融合したスペイン独自の民族的な文化や人文的な景観を醸成もしています。

<プエブロブランコ(白い村) グアディクス>


<プエブロブランコ(白い村) モンテフェリオ>



【アンダルシア州の概観と風土】

アンダルシア州には、コスタ・デル・ソル(Costa del Sol=太陽海岸)と呼ばれる地中海沿岸の太陽に輝く紺碧の海と澄んだ青空に白い村々の美しい南部地域に、雪をいただく山々が連なるシエラ・ネバダ山脈(Sierra Nevada)の中部地域と、雨が多く豊かな緑に覆われたカソルラ山脈(Sierra de Cazorla)の東北部地域や、雨が少ない内陸の乾燥した灼熱の盆地など変化に富んだ多様な地域と環境が見られます。

変化に富む地形と気候は、シークエンスに富む景観をつくり、豊かで情緒あふれる明るく好意的な人々の笑顔とあわせて、ここアンダルシア州の最も魅力ある資質ともなっています。

【アンダルシアの白い村】

地中海沿岸のギリシャからイタリア.スペインにアフリカのモロッコ.アルジェリア一帯にかけて多くの白い村々が見られます。

地中海沿いのギリシャやイタリアにアフリカにかけて見られる白い村々の多くは、気候的な条件を要因として生まれた住居であるのに対し、スペイン.アンダルシアの白い村々の多くは、加えてレコンキスタによる宗教的要因と政治的要因が加わった特徴を持っています。

アンダルシアの白い村々は、キリスト教徒からの迫害を逃れるイスラム教徒の落人(おちゅうど)の里といったところでしょうか。

山間に点在して白く輝く白い村々は、小さくまとまりキリスト教徒からの弾圧や攻撃を威嚇すると共に、白い村々へいたる谷や川は、自然の要塞となり敵をおとしいれる幾重ものしかけ(罠)ともなってもいます。

次回から

・フリヒリアナ(Frigiiana)
・トレベレス(Trevelez)
・グアディクス(Guadix)
・モンテフェリオ(Montefrio)
・アルコス・デ・ラ・フロンテーラ(Arcos de la Frontera)
・グラサレマ(Graszalema)

を訪ねます。




<プエブロブランコ(白い村) アルコス・デ・ラ・フロンテーラ>


<プエブロブランコ(白い村) グラサレマ>




【参考図書.他】
・光と影永遠なる国「スペイン.アンダルシア紀行」渡部雄吉 著 クレオ(1997年)
・「スペイン」増田義郎 監修 新潮社(1998年)
・「南スペイン.アンダルシアの風景」川成洋.坂東省次 編 丸善(2005年)






【作者プロフィール】
相馬正弘(そうままさひろ)
・京都市出身
・設計事務所を開設し、地域計画.都市計画.公園計画を中心に活動中
・大学の講師として後進の指導も
・趣味は、旅行.テニス

新連載「My Favorite Travels And Places(私の好きな旅と場所)は
ケータイ・サプリwebマガジンのための書き下ろしです。
使用されている写真の著作権は相馬正弘さんと記載されている方にあります。