My Favorite Travels And Places
(私の好きな旅と場所)

8.クロード・モネの庭へ(Au jardin de Claud Monet)
その2.クロード・モネの庭(クロ.ノルマンの庭と睡蓮の庭)

【はじめに】
今回は、“クロード・モネの庭へ”と題する3回の連載の2回目です。

前回その1.では、印象派の画家達と時代背景を19世紀のパリの街づくりとランド スケープを通し紐解いてみました。

今回は、パリの北西約60kmのジベル二ーにあるクロード・モネ(Claud Monet 1840-1926年)の庭を訪ねます。

ジベル二ーは、オート.ノルマンディー地域圏レ.ザンドリーのセーヌ川支流エプト川沿いに位置する人口約500人の小さな村です。

< ジベル二ーの地図>



【ジベル二ーへ】
モネは、1871年にパリから北西約17kmのセーヌ川沿いのアルジャトゥイユに暮らし「アルジャトゥイユのひなげし」(1873年作)や「アルジャトゥイユの橋」(1874年作)などの作品を描いています。

その後セーヌ川下流のヴェトイユに移り住み「ヴェトイユの画家の庭」(1880年)などの作品を描いていますが、この地で1879年9月に妻カミーユを亡くし傷心の日々を過ごします。

1883年 モネ43歳の時に、エプト川がセーヌ川に合流するジベル二ーに移り住み終世をこの地ですごしました。

そして取り付かれたようにモネの庭づくりが始まります。

< ジベルニー.クロード・モネ通り>



【クロ.ノルマンの庭】
モネは、ジベル二ーに求めたノルマンディー地方の伝統的な壁でかこまれた果樹園を、6人の庭師とさまざまな花が咲きそう“クロ.ノルマンの庭”(ノルマンディーの囲い庭)につくり変えて行きます。

この壁で囲まれた“クロ.ノルマンの庭”と名付けられた庭は、風をさえぎる格好の庭となり、モネの邸宅二階の寝室からも一望できるものでもありました。

<モネの寝室からの“クロ.ノルマンの庭”>


早春から初夏にかけては、スミレ.チューリップ.スイトピー.シャクナゲ.アネモネ.アイリス.ボタン.ホタルブクロ.ヤブカンゾウ.デルフィ二ウム.ルピナス.ヒナゲシ.バラ.ライラック.サクラ.リンゴ.ツツジ類などの花々が開花します。

夏から晩秋にかけては、イポメイア.キンギョソウ.オダマキ.ジキタリス.フロックス.キンレンカ.サルビア.リンドウ.アネモネ.タチアオイ.ヒメヒマワリ.シオン.ダリア.ハナゾノツクバネウツギ(アベリア)などの花々が彩ります。

冬は、百数十種の植物や樹木のための土づくりと、春から秋にかけての準備がされモネ自らも労をおしまなかったそうです。

<クロ.ノルマンの庭>


あまり知られていませんがモネは、大変な園芸研究家でたびたび植物園を訪ねたり、文献や資料を取り寄せ研究をし、自らオレンジで斑の入った花をつけるダリアの新種を育種し「ディゴワネーズ」命名するほどに熱心でした。

絵画の制作に出かけることの多かったモネは、庭のことや植物が心配で旅先からたびたび手紙をジベル二ーに送ってもいます。

< モネの庭 >



【睡蓮の庭】
クロ.ノルマンの庭の南側、道路と鉄道を地下道でくぐりぬけると“睡蓮の庭”です。

モネは、エプト川から水を引き込み敷地面積の約半分をしめる池を中心とする自然 風景式の“睡蓮の庭”をつくります。

この“睡蓮の庭”づくりは、モネが影響をうけた二つの大きな背景があります。

一つは、モネが29歳の1870年に普仏戦争をさけロンドンに渡り、自然風景画の第一人者であるウイリアム・ターナー(William Turner 1775-1851年)と彼の絵画に出会い自然の認識についての影響を受けていることです。

もう一つは、浮世絵を通し影響を受けた日本の風景です。

池にかかる緑の太鼓橋は、安藤広重の「亀戸天神境内」(1856年)の浮世絵に描かれている風景をモネが再構成して築いた太鼓橋です。

又、太鼓橋を緑にしたのは、ターナーから受けた自然の認識とモネ自身の自然観を反映した結果と考えられます。

< 睡蓮の庭 >



【花と庭のパレット】
「花のおかげで私は画家になれた」とも「庭は私の最高傑作だ」ともモネ自身が語っています。

モネは、季節や時間によって変化する光と影に反射する花と庭の情景を多くの作品に描き、そして睡蓮を主題とする236点の作品を残しています。

百花繚乱の“クロ.ノルマンの庭”と静かに水もに浮かぶ水草の“睡蓮の庭”は、モネ のパレットであったように思えます。

そして、庭をパレットにした“モネの庭”は、私の好きな場所でもあります。

< モネが“睡蓮の庭”を描いた定点 >(右の小道の脇)



【モネの庭の今日まで】
モネが1926年12月5日86歳でこの世を去った後、娘のブランシュ・オジェが1947年12月8日に亡くなるまで庭の維持管理が続けられます。

その後生存する直系の子孫であるミッシェル・モネが所有権を相続しますが、彼はジベル二ーに住むことなく、庭師に維持管理を託していましたが、不慮の交通事故で亡くなります。

彼の遺言によりクロード・モネの全ての所有権はフランス芸術アカデミーに遺贈され、このアカデミーに所属するマルモッタン美術館に保管されます。

そしてモネの絵画はここで一般展示されることになります。

クロード・モネの死後50年が経過した1976年から、モネの残した庭園の写真などを手がかりに、画家のヴァン・デル・ケンプ夫妻により復元が進められました。

そして設立されたクロード・モネ財団に庭の維持管理が引き継がれジルベール・ヴァエ氏を中心に10人の庭師が維持管理をおこない今日にいたっています。



【参考図書.他】
・「ボナールの庭、マティスの室内 日常という魅惑」天野知香.島本英明 著 
ポーラ美術館編修 (2009年)
・「モネの庭へ」南川三治郎 著 世界文化社 (2008年)




【作者プロフィール】
相馬正弘(そうままさひろ)
・京都市出身
・設計事務所を開設し、地域計画.都市計画.公園計画を中心に活動中
・大学の講師として後進の指導も
・趣味は、旅行.テニス

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ケータイ・サプリwebマガジンのための書き下ろしです。
使用されている写真の著作権は相馬正弘さんと記載されている方にあります。