My Favorite Travels And Places
(私の好きな旅と場所)

39.常夏の楽園いやしの風が吹くハワイ

その5. ハワイの近代化とその背景

【はじめに】

今回は、ハワイの近代化の契機となったジェームズ.クック(ヨーロッパ人)による、ハワイ諸島の発見以降から今日までの歴史的背景を踏まえ、常夏の楽園にいやしの風が吹くハワイの魅力と資質を築いてきた人々の努力の足跡をたどってみたいと思います。

<ハワイ諸島>




【ハワイにおける近代化の動機】

ハワイにおける近代化の動機となった事象に次のことを上げることが出来ます。

・ジェームズ.クック(ヨーロッパ人)によるハワイ諸島の発見。
・ハワイ王国の建国。
・白檀貿易と捕鯨(寄港地)。
・大規模プランテーションと土地所有制度の崩壊。
・移民と砂糖産業。
・ハワイ王朝の終焉とアメリカとの併合。



【ジェームズ.クック(ヨーロッパ人)によるハワイ諸島の発見】

英国の海洋探検家でキャプテン.クック(Captain Cook)の愛称で知られるジェームズ.クック(James Cook:1728-1779年)は、北極圏を抜けて大西洋と北太平洋を結ぶ新航路の探索をするための航海を、海軍大臣サンドウィッチ伯爵ジョン.モンタギュー(John Montagu, 4th Earl of Sandwich:1718-1792年)に提案し認められます。

英国ジョージ3世(George V:1738-1820年)国王と英国王立協会の要請を受け1776年レゾリューション号とディスカバリー号(HMS Resolution &HMS Discovery: HMS =His Majesty's Ship:国王の船)二隻の帆船でプリマス港を彼自身3度目となる探索の航海に出帆します。

大西洋から喜望峰-ニュージーランド-タヒチ-カリフォルニア-アラスカと航海を続け、1778年1月18日にオアフ島に到着し2日後の1月20日にカウアイ島のワイメア湾に投錨し、ヨーロッパ人として初めてハワイの地に上陸します。

そしてその後ハワイ諸島主要8島を発見します。

しかしクックは、翌年の1779年にハワイ島コナ.ケアラクア湾で地元のハワイアンとの宗教観の相違や確執に帆船からカッターなど装備品が略奪されたことなどから紛争となり殺害され51歳で死去します。

クックから艦隊を引き継いだチャールズ.クラーク(CharlesClerke:1741-1779年)も、当初の目的を果たすため北極圏を抜ける新航路探索を続ける途中のベーリング海カムチャッカで結核により死亡します。

その後二隻の艦隊を引き継いだジェームズ.キングと(James King:1750-1784年)とジョン.ゴア(John Gore:1729-1790年)二人の艦長らは、1780年8月に英国に帰還します。

彼らによりクックの死亡と航海の報告が英国海軍と英国王立協会に行なわれ、ヨーロッパそして世界にハワイの存在が伝えられます。

ジェームズ.クックによるハワイ諸島の発見は、欧米との交易のきっかけとなる一方ハワイに天然痘や結核等の疫病をもたらします。

この疫病によって免疫のないネイティブハワイアンの人口は、100年足らずの間にで30万人(一説では80万人)が数万人にまで減少したと伝えられています。

このことは、後世のハワイでの近代産業草創期の砂糖黍プランテーションにおける労働力不足の要因ともなり、移民による労働力を海外に求めることへとつながっています。

<ジェームズ.クックの二隻の帆船    「マハタヴィ湾のレゾリューション号とディスカバリー号」     William Hodges(1776年)>



<ジェームズ.クックの3回の探索航路 (赤-1回目航海.緑-2回目航海.青-3回目航海)Jon Platek作成>




【ハワイ王国の建国】

クックのハワイ諸島発見以降、ハワイとの交易や植民地を求める欧米諸国から の来航が相次ぎます。

当時のハワイは、アリイ.ヌイ(大族長:Alii.Nui)と呼ばれる支配者により島単位で統治が行なわれ国として統一されていません、そうした状況の中ハワイ島の支配者の1人であったカメハメハ1世(KamehamehaT:1758-1819年)は、クックの後継者の1人であった、ジョージ.バンクーバー(George Vancouver:1757-1798年)と親交を深めハワイでの英国海兵隊の安全保障の見返りに、欧米諸国やアジア諸国からのハワイ侵略防衛援助協定を取り付ける等政治的.外交的手腕を発揮し支配者.権力者としての地位を築いてゆきます。

一方ハワイにおける権力や支配地闘争に備え英国から銃砲を購入し、又戦術の伝授も受け軍備をととのえます。

軍備力を活かし1790年にハワイ島モクオハイでの戦いに勝利し、1795年二イハウ島とカウアイ島を除くハワイ諸島を統一、その後全島を制圧し1810年にハワイ王朝として建国を図り初代ハワイ国王となります。


【白檀貿易と捕鯨(寄港地)】

カメハメハ1世は、ハワイ統一と建国のための資金と英国から銃砲などを購入するための軍備資金を、家具や彫刻の原木となるハワイに自生する白檀(サンダルウッド=Sandalwood)を中国などへの輸出を独占事業とすることにより調達します。

建国後も国と王朝の財政資金とするため白檀の輸出の独占事業を継続したますが、白檀の乱獲につながり1830年頃には白檀は枯渇しハワイからその姿を消してしまいます。

こうして白檀による貿易と財政資金の調達は、終焉をむかえます。

<白檀(サンダルウッド=Sandalwood)>



白檀の枯渇によるハワイで逼迫した財政資金の救世主の一つとなるのが、灯火用燃料の鯨油を得るための米国での捕鯨が活況したことがあげられます。

19世紀初頭に日本近海でマッコウ鯨(抹香鯨=Sperm Whale)が発見され、米国西海岸から太平洋を横断し日本近海に向かう為の捕鯨船の寄港地となったハワイ諸島.オアフ島ホノルルやマウイ島ラハイナの港は捕鯨中継地基地として繁栄します。

1810年から1880年頃まで捕鯨が賑わった最盛期には、400隻もの捕鯨船がハワイに寄航したことにより経済的恩恵に浴します。

しかし1850年代に米国内で石油が発見されたことや灯油(ケロシン油)を蒸留す る技術が開発されたことになどにより次第に鯨油の需要も少なくなり捕鯨も衰 退します。


【大規模プランテーションと土地所有制度の崩壊】

一方、内陸部でネイティブハワイアンの食料としてのみ栽培されていた砂糖黍が白檀にかれる財政資金となる新しい砂糖産業として注目され、ハワイ王朝やハワイ経済に繁栄をもたらします。

1835年英国人ウィリアム.フーパー(William Hooper:1809-不明)がボストンからカウアイ島コロアで980エーカーのハワイではじめの砂糖黍プランテーションを開きます。

1850年代の米国での砂糖の需要が増大にたことに呼応し砂糖の生産を高める為に、より多くの砂糖黍プランテーションの開発と運営を行う上で、広大な土地と灌漑用水に労働力の確保が課題となり、ハワイでの土地所有制度の改革と移民とによる砂糖黍プランテーションのハワイ諸島での拡大が始まります。

それまでハワイの土地所有は、共有財産としての土地を245人の王族.領主(島の族長)が支配権を持つだけのものでまったく土地の所有概念の無い共有制度であったものをあらため、土地を有効に活用し基幹産業として発展させる上で、又資本家や企業家が土地を利用しやすくした制度にあらためることの必要性がもとめられるようになります。

1848年国王カメハメハ3世(Kamehameha V:1813-1854年)は、国民会議を設置し最高裁判所を創り王領地.国領地(官領地).族領地に分割所有を認める土地改革法グレート.マヘレ(Great Mahele Act)を施行します。

又、1850年には、土地の個人所有を認めたクレアナ法(Kuleana Act:農地の小作土地権法)と外国人土地所有法(Alien Land Ownership Act)を制定し施行します。

このことにより資本家や企業家は、国領地はもとより官領地等を購入することや借地することができ砂糖黍プランテーションの開発が可能となり土地問題は、一期にかつ早期に解消されます。

  しかし1868年までのわずか12年間でハワイの購入や借地可能な土地の75%が外国人の資本家や企業家たちの所有となったと言われています。

  これら土地改革にかかわる一連の法令の施行は、砂糖黍プランテーションの起業に留まらずハワイ社会の機構そのものを大きく変えてゆくことの魁ともなります。

灌漑用の水は、ハワイ諸島各島で降水量が安定的に確保可能な丘や尾根の北西側に多く、これらの地域に砂糖黍プランテーションの開発が拡大されてゆきます。

この近代産業草創期に第3代国王を務めたカラカウア3世を継承した、第7代国王カラカウア(ディビッド.カラカウア:Daivid Kalakaua 1836-1891年)時代の1876年に、ハワイと米国との貿易関税を撤廃されたことにより輸出による砂糖産業がさらに発展します。

<砂糖黍プランテーション(現在はバイオエタノールの原料となされています)>



<日本人移民の人々がハワイ島に築いた砂糖黍の街ホノカア >




【移民と砂糖産業】

1850年代以降の砂糖産業繁栄の労働力は、移民による人達であったと言っても過言ではありません。

最初に1852年に白檀の輸出で交易のあった中国から契約移民がハワイに入移して以来1946年にかけて韓国.日本.ポルトガル.スコットランド.スペイン.ドイツ.ノルウェー.デンマーク.ロシア.プエルトリコ.アフリカ諸国など世界各国から約40万人もの移民がハワイに渡ってきています。
そして1876年以前には、その80%ほどが砂糖黍プランテーションや砂糖工場に従事していたと言われています。

日本からもハワイの地に夢を託し1868年(明治元年)に158人が海を渡り入移して以来1924年までに約22万人の日本人が移民をしています。

砂糖産業の担い手として多くの移民を必要としたのは、1778年にジェームズ.クックと乗組員がハワイに来航した折と捕鯨船の寄港地として栄えた1810年代に、欧米から持ち込まれ疫病により免疫のないネイチィブハワイアンの人々が感染し、著しく人口が減少しハワイ内で労働力が充足しえなかったことに起因しています。

  移民の人々により支えられ発展し繁栄したハワイの砂糖産業は、1890年米国連邦議会が米国内砂糖産業に奨励金をつける関税(保護)法案を可決されたことにより、ハワイから米国への輸出が激減し砂糖黍プランテーションの地価は暴落し労働者への賃金の低下や失業者の急増により大打撃を受けます。

砂糖産業が基幹産業とし隆盛をきわめていたハワイの経済は、たちまち深刻な不況に見舞われることになります。


【ハワイ王朝の終焉とアメリカとの併合】

ハワイにおける基幹産業に成長した砂糖産業の衰退に合わせるかのように、ハワイ王朝も終焉をむかえます。

米国資本のハワイの砂糖産業経営者は、ハワイが米国との保護領となるか併合により米国に帰属させることにより、不況の事態の解決を図ろうと画策したことなどから、1893年に米国臨時政府がハワイに樹立されます。

1810年カメハメハ国王による建国以来84年間継承されたハワイ王朝は、第8代リリウオカラニ女王(Liliuokslani:1838-1919年)で消滅し1810年に米国に併合されることとなります。

リリウオカラニ女王の死後の1959年8月21日.米国合衆国50番目の州とし宣言書に調印されハワイ州が誕生します。


【ハワイの影と光】

1778年ジェームズ.クックがハワイ諸島を発見して235年。

1810年カメハメハ国王がハワイ王朝を建国してから203年。

1959年米国合衆国ハワイ州となり54年。

悠久の自然の中で、様々な事象がかけめぐった200年余りの歴史の中の影と光のかたなに、今は穏やかでまぶしいばかりに輝く常夏の楽園にいやしの風が吹くハワイを満喫しているのは、影なるハワイをささえてきた今は亡きネイティブハワイアンや移民の人達なのかもしれません。

ハワイは、そんな影と光を受けていて、いつまでもそっとたたずんでいたい私の好きな場所でもあり旅の行き先でもあります。



<リゾート地に一変した現在のハワイ(オアフ島ホノルル)>




【参考図書】

・『ハワイの歴史と文化』(悲劇と誇りのモザイクの中で) 矢口祐人著.(2002年).
 中公新書
・『最後の航海』多木浩二著.(2003年).新書館
・『ハワイ王国物語』ジョン田中著.佐々倉守邦訳. (2007年).JTBパブリッシング
・『さまよえる楽園』(民族と国家の衝突)中嶋弓子著.(1993年).東京書籍
【特記】
・「マハタヴィ湾のレゾリューション号とディスカバリー号」
 William Hodges(1776年)をトリミング拡大.本絵画はパブリック、ドメインに属しています。

・ジェームス.クックの3回の探索航路の作者は、Jon PlatekでGNU( Free
Documentation License)に属しています。










【作者プロフィール】
相馬正弘(そうままさひろ)
・京都市出身
・設計事務所を開設し、地域計画.都市計画.公園計画を中心に活動中
・大学の講師として後進の指導も
・趣味は、旅行.テニス

新連載「My Favorite Travels And Places(私の好きな旅と場所)は
ケータイ・サプリwebマガジンのための書き下ろしです。
使用されている写真の著作権は相馬正弘さんと記載されている方にあります。