ブラジルとペルー:世界遺産を巡る旅
Brazil and Peru: A tour around the World Heritage sites
3. イグアス国立公園 Iguazu National Park
いよいよ最初の世界遺産、イグアスの滝のあるイグアス国立公園です。
世界遺産とは、人類が将来にわたって共有し継承していくべき普遍的で顕著な価値のある自然遺産や文化遺産。
世界遺産条約に加盟する国々からの申請を受け、一定の基準を満たしたものがユネスコ(UNESCO:国際連合科学教育機関)に登録されています。
UNESCO
http://http://whc.unesco.org/
世界遺産の包括的な情報はUNESCOのホームページにあります.
ここにはNHKと共同制作の世界遺産100選の短編ビデオも掲載されています。
リストは日本のユネスコの世界遺産のページにもあります。
世界遺産
http://www.unesco.or.jp/contents/isan/
世界遺産には、現在878が登録されており、174の自然遺産、679の文化遺産に加え、
両方の要素を併せ持つ25の複合遺産の3種類が定義されています。
今回はこの順序で1ヶ所ずつ巡ります。
最初のイグアスは、当然、自然遺産です。
NHKのビデオがUNESCOのアルゼンチンのイグアス国立公園サイトにあります。
イグアスの大自然はブラジルとアルゼンチンの両国にまたがっており、1984年にアルゼンチン側のイグアス国立公園、
1986年にブラジル側が世界遺産として登録されました。
つまり、単に滝の自然景観に止まらず、大自然の中で植物と動物が世界有数の豊かな生態系を営む環境の大きな価値を認識し、
それを保護・維持していく両国の意思を示しているといえます。
国連の環境プログラム資料によれば、両国立公園内の熱帯雨林には2,000種以上の植物(維管束植物)が確認されています。
動物についてはブラジル(Bと略)とアルゼンチン(Aと略)では数が異なり、
バク、オオアリクイなどの哺乳動物が45(B)/68(A)種、
鳥類が350(B)/422(A)種、蝶が257(B)/250(A)種、
ワニ、トカゲ、ヘビ等の爬虫類が49(B)/40(A)種、そしてカエル等の両生類が12(B)/18(A)種となっています。
この付近で両国の国境となっているのがイグアス川であり、その川の大きく蛇行している部分に巨大な馬蹄形、
U字形の古くからの断層があり、落差80m、幅2.7kmにも及ぶ「世界三大瀑布」のひとつと称せられるイグアスの滝があります。
イグアスの滝はアルゼンチンとブラジルの両サイドでその荘大な景観を楽しむことが出来ます。
これはブラジル側の展望台から滝の中央部分を撮ったもので、アルゼンチン側からは遊歩道を通って滝の最奥部、写真の右上方に近づくことが出来ます。
ところで「イグアス」とは何のことでしょうか。
スペイン語では"Iguazu "と表記します。
しかしすぐ隣国のパラグアイでは"Yguazu"と表記します。
後述しますが、パラグアイはスペイン語と先住民のグアラニ族の言語、グアラニ語のバイリンガルの国です。
「イグアス」とは、グアラニ族の言葉で
"Y"(水)+"guazu"(大きい)="Y'guazu"(大きい水)
の意味とのこと。
アルファベット表記は後世のことなのでいくつかバリエーションがありますが、"Y"の発音が独特なようです。
さて「世界三大瀑布」と一般的にいわれているのは、「イグアスの滝」のほか、アフリカ中央部、ザンビアとジンバブエ国境にある「ヴィクトリアの滝」。
イギリス女王の名前をとったもので面白味がありませんが、現地語では、雷鳴が轟く水煙、という意味の"Mosi-oa-Tunya"と呼ばれています。
落差108m、幅1.7kmで、これも両国にまたがるモシ・オ・トゥニャ国立公園が世界遺産に指定されています。
もうひとつはエリー湖とオンタリオ湖を結ぶナイアガラ川にある「ナイアガラの滝」。
カナダ滝とアメリカ滝からなり、落差は最大52m、幅はカナダ滝が792m、アメリカ滝は323m。ナイアガラ(Niagara)の語源にはいくつかの説があるようですが、
意味としては、エリー湖とオンタリオ湖の間にあるからでしょうか、首、とか、2つに分ける陸の地点、ということのようです。
一大観光地としてアクセスの良さでは勝りますが、スケールは他の2つに比して圧倒的に見劣りします。
ルーズヴェルト大統領夫人エレノアはイグアスの滝を見て、"Poor Niagara!"(可哀そうなナイアガラ)と叫んだとのこと。たしかに・・・。
因みに、世界最大落差の滝は南米ヴェネズエラのギアナ高地にある「天使の滝」、エンジェル・フォールで、979mあるとのこと。
さて今回はイグアスの滝のアルゼンチン側を中心にご紹介します。
まずは下流の「友愛の橋」を渡ってブラジルからアルゼンチン側に向かいます。
ひだり端の柱が橋の中央。丁度アルゼンチン側に入ったところで、橋のブロックは色あせてはいますがアルゼンチン国旗の三色に塗られています。
この橋は1985年に完成しました。時期的には両国のイグアス国立公園が世界遺産に登録される前後で、観光活性化の目的があったと思われます。
アルゼンチンの国立公園の看板。
「滝への玄関口」とあります。
滝へは観光用のトロッコ列車が往復しています。
20分ぐらいトロッコ列車に揺られ、「悪魔ののどぶえ」と呼ばれるイグアスの滝の最奥部に向かう歩道の入り口に着きました。
このような歩道が湿地の茂みの中を通り、やがてイグアス川の川面を横切っていきます。
道中は1kmあまりで結構長いが歩道のかかった部分の流れはおだやかです。
滝に着きました。やや遠方に歩いてきた歩道の架橋が見えます。
そして「悪魔ののどぶえ」が目前に。
水の流れを見ていると吸い込まれそう。
すさまじい轟音が鳴り響きます。滝というよりまさに瀑布というべき。
あまりにも間近のため、簡単ズームでは全貌を捉えきれません。
全体では季節変動により、毎秒500~6,500トンの水が150~300の滝となって流れ落ちているとのこと。
特に水量の多い時期ではありませんが、いい天気に恵まれ、虹の絶えることがありません。
対岸はブラジル側。
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右上に展望台が見えます。明日はあちらから眺めます。
帰り道、川の中の岩に羽を拡げて1.5mぐらいはありそうな大きな鳥が。
まるで年末の紅白に出てくるベテラン歌手のよう。
これは首がヘビのように長くて鵜に似ているアメリカヘビウ(Anhinga)でしょう。
アジアヘビウやアフリカヘビウなど仲間は世界中の淡水の湖沼や河川にいるらしい。
因みにanhingaとはトゥピ語で、へび鳥とか悪魔の鳥の意味だそう。
ということは、ブラジルで最初に見つかったのでしょうか。
他にもいろいろな鳥やたくさんの蝶々を見かけました。
イグアスの滝はブラジルとアルゼンチンの国境にありますが、
イグアス川は滝から18km下ったところで両国とパラグアイの国境を流れるパラナ川に流れ込みます。
この合流点は、3カ国の国境地点でもあります。
アルゼンチン側の国境の町、プエルト・イグアスには三角錐のモニュメントが建っています。
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イグアスの滝と3カ国の関係を簡単な図にすると以下のように。
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アルゼンチンのプエルト・イグアスからパラナ川の上流を眺めます。
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左がパラグアイ、右がブラジル。パラナ川がゆったりと流れます。
夕暮れ時のとても静かで豊かな時間。
目を凝らすと、なんと遠くにパラグアイの街のビルが見えます。
熱帯雨林の只中にいるつもりなのでちょっと驚きです。シウダ-・デル・エステでしょうか。
1965年に開通した「友情の橋」の袂にある町です。
この橋は内陸国パラグアイとブラジルを結ぶ陸上交通の重要なルートです。
シウダ-・デル・エステは免税のため物価が安く、南米の秋葉原といわれたりするそうです。
ブラジルやアルゼンチンからの買い物客で賑わい、橋は頻繁に渋滞するとか。
この橋のさらに上流にはパラグアイとブラジルの共有財産である世界最大のダム、イタイプー・ダムがあります。
他にアルゼンチンと共有するダムもあり、豊富な水源を利用した水力発電によりパラグアイは世界有数の電力輸出国となっています。
遠くには運べませんが。
夕暮れのパラナ川を眺めながら、少しパラグアイとパラナ川流域について想いを馳せてみます。
パラグアイの通貨単位はグアラニ、公用語はスペイン語の他にグアラニ語があり、94%の国民がグアラニ語を話し、
90%はグアラニ語とスペイン語の両方を話すそうです。
パラグアイの北西に位置するボリビアもグアラニ語とスペイン語が4つの公用語のうちの2つです。
因みに他の2つはさらに西の隣国ペルーの公用語でもあります。かつてのインカ帝国にもつながります。
さすが陸続きの国々。日本人には考えられない状況。
グアラニ語を話すグアラニ族は、パラナ川やイグアス川、そしてパラナ川が合流するパラグアイ川の流域、
すなわちパラグアイを中心としブラジルとアルゼンチンの一部を含むこの地域の先住民です。
グアラニ族は同じトゥピ・グアラニ言語系に属する沿岸部のトゥピ族と並び、南米中部地域の大きな勢力でした。
Guaraniという呼称はグアラニ語の「戦い」とか「戦士」を表す"guarini"から来ているそうです。
さらに世界遺産を調べてみると、グアラニ族の住んでいたこの地域にはキリスト教の伝導所を中心とした村の遺跡が数多く残されていることがわかりました。
1983~84年にブラジルとアルゼンチンの伝導所跡が両国共通の「グアラニのイエズス会伝導施設群」として世界遺産に登録され、
パラグアイの伝導所跡は1993年に登録されています。
これはどういうことか・・・。興味ある歴史的事実が浮かび上がってきました。
少し長くなりますが、これらの世界遺産の歴史を追っての15世紀から18世紀にかけてのバーチャル・トリップです。
西暦1500年をまたぐ15世紀から16世紀にかけてのこの時代は、大航海、宗教革命、ルネッサンスといったキーワードで示される、
中世から近世さらには近代につながる大転換期といえます。
イベリア半島は7世紀以降イスラム勢力による征服状態にありました。
ポルトガルは13世紀にイスラムを追い出し、エンリケ航海王子が率先してアフリカ進出、さらにはインド開拓の野望を抱きます。
スペインは1492年にイスラム勢力を撃退し、キリスト教国によるイスラム教国の再征服運動、レコンキスタを完遂します。
そして意気盛んなまま直ちに未知の大陸の開拓とキリスト教文明の拡大を目指します。
この大航海時代を象徴する大きな出来事が、スペイン王室の援助を得たコロンブス(コロン)による1492年の新大陸発見や、
1497~98年のポルトガル人バスコ・ダ・ガマによる喜望峰経由インド航路開拓ですね。
大航海時代においては、ローマ教皇は新大陸への植民地拡大を精神的に支え、
両国はキリスト教拡大を経済的にも支援する、という協力関係がうまく機能しました。
もともとは教会と領主の間に見られた関係が教皇と国王の関係に拡大されたのです。
教皇は発見地が他のキリスト教国の支配下にない異教の地であれば、
布教推進とその経済的負担を行う布教権授与の見返りとして、
その地の植民地化や貿易を独占的に進める権利、領有権を認めました。
事あるごとに「回勅」と呼ばれる公文書で全教会に向かって教皇の立場を示したのです。
その根拠がいずれ問題になるにせよ、両国以外はまだ海外に眼を向ける余裕はありませんでした。
win-winの結果として大航海時代にカトリック教会は世界規模への大発展期を迎え、
イスラムを撃退して意気揚がるスペインは「神に選ばれた存在」を自認し、世界最強国への道を進みます。
新発見の大陸は両国の分取り合戦となりました。
1481年には教皇シクストゥス4世がアフリカ北西沿岸のカナリア諸島以南の新領土をポルトガルのものとする回勅を出しました。
しかし新大陸を発見したコロンブスが帰還した1493年に、
スペイン人の教皇アレクサンドル6世はアフリカ西岸から2,000kmほどの境界子午線の
西側の領有権をスペインに認める回勅を出したのです。
これに対してポルトガルは、発見地はすでに領有している領土に含まれるのではないかと譲らず、
両国が話し合った結果、1494年にトルデシリャス条約を結び、アレクサンドル6世もこれを承認しました。
この条約は、前年に教皇から示された境界子午線を西に大きく移動させ、
西経46度30分付近の子午線で2つに分け、東はポルトガル、西はスペインのものとする、というものです。
この子午線は丁度サンパウロのあたりを通ります。
この条約が基となって1500年にポルトガル人のカプラルが発見したブラジルはポルトガル、
他はスペインという区分けが成立しています。
大きな困難が伴う新大陸での布教活動は、当時カトリックの内部改革に立ち上がり
実践的布教活動を行っていた幾つかの修道会が両国王室に支えられつつ前線を担いました。
理想を抱き使命感を持って布教活動のために未知の地、未開の地に飛び込んでいく修道士たちの行動力と
それを輩出するカトリックの底力は、衰えつつあったとはいえ眼を見張るものがありますね。
中でも活躍したのがイエズス会です。
イエズス会は、イエス・キリストを範とし聖地に住み貧しい者と教会に奉仕する殉教生活を望む
スペイン人のイグナチオ・デ・ロヨラと、彼の考えに賛同したフランシスコ・ザビエルら
スペイン人計4人とポルトガル人2人の計7人が中心になり創設されました。
年齢こそ違え同時期にパリ大学で学んでいた7人は、1534年に現在のサクレ・クール寺院の場所にあった
サン・ドゥニ小聖堂に集まりました。
そこで「清貧、貞節、聖地巡礼」の3項目と、「聖地巡礼が不可能な場合は教皇の命じる如何なる場所にも赴く」
という厳しい条件を自らに課した、いわゆる「モンマルトルの誓願」、神に対する荘厳な誓いをたてたのです。
モンマルトルの逸話については、この「旅のヒント」でも、
「ドイツ・ファンタスティック街道と南仏の美しい村を訪ねて」の13回「モンマルトル・プチ散歩」でもご紹介しています。
http://www.ktai-supli.jp/travel/200811.html
さて、聖地巡礼の目的地エルサレムは7世紀以降イスラム勢力が支配し、
11世紀から13世紀にわたる度々の十字軍の派遣も短期的な奪回に終わりました。
ロヨラたちが巡礼を志した当時のエルサレムは1517年からオスマン・トルコの手にありました。
この状況では聖地での布教活動は不可能です。修道会名をイエズス会としたロヨラたちは
エルサレムでの活動をあきらめざるを得ませんでした。
イエズス会は賛同者を増やしつつ1540年にローマ教皇パウロ三世の正式な承認を得て
教育や学問を重視した世界的な布教活動に乗り出しました。
ザビエルはポルトガル王の求めに応じて1541年にリスボンを出発しインドに向かい、
1549年には布教のために日本に到着しました。
ブラジルには、1549年にポルトガルの植民地政府創設を目的とした総督の船に、
マヌエル・ダ・ノブレガ以下6人のイエズス会の宣教師も同乗して到着し、
1554年に現在のサンパウロに、そしてその後リオにも神学校を開きました。
さらに西方への展開を計画し、スペイン、ポルトガル、アイルランド人の3人の宣教師が
現在のアルゼンチンのブエノス・アイレス付近からラ・プラタ川そして合流する
パラナ川やパラグアイ川を北上し1588年にはパラグアイのアスンシオン付近に到達します。
イエズス会はこのパラナ川流域の地で住民の保護と自立を目的に、
スペイン王フィリペ3世に供与された保護地区に1610年から伝道村(ミッション、
スペイン語でレドゥクシオン)を各所に作り、最終的には30ヶ所に達しました。
集落には教会、学校、モデル住宅が建てられグアラニ族に対して定住の場所を提供し、
熱心にキリスト教の教えを説くと同時に生産活動を共に行いました。
グアラニ族にとっては、植民地の労働力を確保するため横行する
ポルトガル人の奴隷商人からのシェルターの役目も果たしました。
イエズス会としては、定住により教化を効果的に進めると同時に、
安定的な生産体制を作る目的もあったようです。
こうして伝道村は自給自足の原始共産的な独特の文化を育み、
「地上の楽園」ともいわれる安定した時代が約150年続いたといいます。
しかし植民地支配による搾取を優先する現地のスペイン人とポルトガル人入植者にとっては、
原住民を保護しともに繁栄する治外法権のようなイエズス会の伝道村、レドゥクシオンは厄介者とみなされていきます。
伝道士は追放され、グアラニ族は力で押さえつけられ離散してしまいます。
イエズス会自体も政治的圧力に屈した教皇クレメンス14世の回勅により1773年に解散させられてしまいました。
そして現在残るのが3カ国にまたがる数ヶ所の世界遺産なのです。
1986年公開、ロバート・デ・ニーロ主演のイギリス映画『ミッション』は、
1750年代つまり「地上の楽園」末期のこの地でイエズス会宣教師たちが理想を掲げ原住民を守りながら、
搾取をもくろむ白人入植者や本国の政治・宗教権力と葛藤する姿を描いています。
この映画は1986年度カンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞しました。
イエズス会はこの地で大きな成果をあげました。しかし150年後、伝道村の活動は途絶えました。
その評価については賛否両論があるようです。
地上の楽園があった事実を認めるとともに、結果として先住民の人たちは
大国の政治と宗教の論理に振り回されただけであったのかもしれません。
日本でも、ザビエルらイエズス会による布教活動が開始されてから60年ほど過ぎたころに
キリシタン禁止令が出され弾圧されました。
しかしキリシタンはその後250年間にわたり隠れキリシタンとして生き延びたのです。
禁止令の解かれる少し前の1865年に長崎に大浦天主堂が建築され、
そこに現れた婦人たちに、隠れていたキリシタンであると告げられた神父たちは驚愕したそうです。
文化を受け入れるためには受容性が必要ですが、単に受容するにとどまらず吸収し同化し継承していくためには、
受け入れる側にもそれなりの文化成熟度が必要であるということかもしれません。
そのような歴史を経て、パラグアイは1811年、ラテンアメリカで最初に共和国として独立しました。
19世紀後半には自立的発展をしていたパラグアイにアルゼンチンとブラジルが干渉し、ウルグアイも加わった三国との戦争になり敗れました。
その後も政治的に安定せず停滞状況が続きましたが、1995年にアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイと実質的な関税同盟を結び、
「メルコスール(南米南部共同市場)」の一員として経済的発展を目指しています。
日系人も7,000人と多く、日本とは友好な関係が続いています。
2007年には移住70周年記念祭典が行われました。
パラグアイの国旗は三色旗ですが中央に紋章があります。その紋章が表と裏では異なります。
世界広しといえども表裏が異なるデザインの国旗はパラグアイ国旗だけ、ということを今回初めて知りました。
駐日パラグアイ共和国大使館
http://www.embapar.jp/html
さて、明日はブラジル側からのイグアスの滝の見物です。
続きは次回。